地名(ちめい)の由来(ゆらい)ははっきりしませんが、北明(きため)、善導(ぜんどう)、坂東(ばんどう)、公文名(くもんめ)など中世的(ちゅうせいてき)な小字(こあざ)が多(おお)いことから、中世の名田(みょうでん)に発(はっ)するものと推測(すいそく)されています。当時(とうじ)一帯(いったい)は徳大寺家(とくだいじ)の荘園(しょうえん)でしたが荘園の支配権(しはいけん)が次第(しだい)に荘園を管理(かんり)する荘官(しょうかん)(公文(くもん))の手(て)に移(うつ)り、先(さき)に挙(あ)げた小字名はこれら荘官の役職名(やくしょくめい)や氏名(しめい)に由来するものと考(かんが)えられます。
戦国時代(せんごくじだい)には近(ちか)くの増山城(ますやまじょう)を巡(めぐ)って、越後(えちご)の上杉氏(うえすぎし)と在地(ざいち)の土豪(どごう)神保氏(じんぼし)とによる戦闘(せんとう)が繰(く)りかえされました。江戸時代(えどじだい)は加賀藩(かがはん)領(りょう)で戸出(といで)又右衛門(またえもん)組(ぐみ)、東保(ひがしぼ)吉右衛門(きちえもん)組(ぐみ)などに属(ぞく)していましたが、江戸末期(まっき)から明治(めいじ)3年(ねん)までは庄下(しょうげ)組に属していました。元禄(げんろく)ころの戸数(こすう)は81軒(けん)、嘉永年間(かえいねんかん)には115軒、明治6年の地租改正時(ちそかいせいじ)には143軒と増(ふ)え、ほぼ今日(こんにち)と変(か)わらない規模(きぼ)の村(むら)となりました。
明治9年石川県(いしかわけん)、16年富山県(とやまけん)、22年礪(と)波郡(なみぐん)般若村(はんにゃむら)、昭和(しょうわ)29年3月合併(がっぺい)により礪波町、同年(どうねん)4月砺波市(となみし)となりました。
林神社(はやしじんじゃ)の秋(あき)の例大祭(れいたいさい)に行(おこな)われます。上村(かみむら)、下村(しもむら)いずれも百足獅子(むかでじし)ですが上村は男獅子(おじし)、下村は女獅子(めじ゜し)です。
サンバサ、ミヤマワリなどの共通(きょうつう)の演目(えんもく)もありますが、上村のミズヒキ、下村のキリコなどそれぞれ特色(とくしょく)のある演目もあります。獅子方(ししかた)は青年会(せいねんかい)の会員(かいいん)がつとめ、獅子取(ししど)り小学(しょうがく)一年生(ねんせい)から六年生までの男(おとこ)の子(こ)がつとめます。
昔(むかし)は長男(ちょうなん)しか獅子取りになれませんでしたが、少子化(しょうしか)で子どもの少ない今日では次男(じなん)、三男(さんなん)でも参加(さんか)できるようになりました。
真宗(しんしゅう)の家(いえ)の主婦(しゅふ)が六月中旬(ろくがつちゅうじゅん)に催(もよお)す報恩講(ほうおんこう)。七集落(しゅうらく)が一年交代(いちねんこうたい)で当番(とうばん)をつとめます。
祭壇(さいだん)に阿弥陀様(あみだざま)の絵像(えすがた)をかけ、講(こう)で所有(しょゆう)している五具足(ごぐそく)を飾(か)ざり、村内(そんない)の常称寺(じょうしょうじ)、西慶寺(さいけいじ)と宮森(みやもり)の南桂寺(なんきょうじ)の住職(じゅうしょく)を交互(こうご)に呼(よ)んで読経(どきょう)と説教(せっきょう)をしてもらいます。かなり古(ある)くから続(つづ)けられていますが、はっきりした起源(きげん)はよく分(わか)かりません。
女(おんな)の尼講(あまこ)に対(たい)して男(おとこ)の講が御忌(ぎょうき)。蓮如上人(れんにょしょうにん)がお亡(な)くなりになった三月二十四日(御忌)にちなんで行われたもののようですが、頼成(らんじょ)ではなぜか三月一五日に行(おこな)う習(なら)わしとなっています。
当番集落(とうばんしゅうらく)の役員宅(やくいんたく)で行われていましたが集落センターができてからは毎年(まいどし)そこで行うことになりました。三か寺の住職の読経と説教のあとお昼(ひる)にオトキと呼ばれる会食(かいしょく)をしてから解散(かいさん)します。