本願寺再建に力を尽くした「仏の庄太郎」
「仏の庄太郎」は本名を坂東忠兵衛(のちに庄太郎と改名)と言い、天保5年(1834)10月10日、般若村頼成坂東太郎兵衛(三代目、現当主は八代目和雄氏)の五男として生まれました。
幼い頃から信心の心が篤く、21歳の時京都に赴き 砺波詰所で寝起きしながら、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく 後注)で衰退していた本願寺の復興・再建に力を尽くしました。京都では出身地の地名にちなんで「砺波、砺波」と呼ばれたので、いつしか砺波庄太郎が通称となりました。
その暮らしぶりは質素で、真冬でも足袋をはくことはありませんでした。巨体ながら性格は温厚篤実、人々からは
「仏の庄太郎」と呼ばれて尊敬を集めていました。しばしば法主の北陸巡化(じゅんげ)に随行して、真宗の布教や本堂再建の浄財集めに努めましたが、明治36年(1903)、所用で井波別院に出かけたおり病に倒れ、同年6月21日、数え年71歳でこの世を去りました。
庄太郎の死去に際し、在家の一信者としては破格の葬儀が本山総会所において営まれ、連枝(れんし)摂光院をはじめ、本山関係者数百人が会葬して生前の大きな功績を称えました。
また、実家の坂東家で営まれた葬儀にも、庄太郎の徳を慕って、近郷近在から千人もの人々が参列したといわれています。
注 明治維新の時、神道を崇めるあまり、寺院や仏像を焼いたり打ち壊わしたりする動きが
全国的に起こり、多くの貴重な文化財が失われました。これを「廃仏毀釈」と言います。